流転する都 その四

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都が流転するのはケガレ信仰の影響で、それは死の儀式を仏教が受け持つようになるまで続いた。すなわち日本における古代仏教は葬儀社と同等であったのではなかろうか、と私は見ている。ただすべてががらりと入れ替わったのではなく、それが徐々に行われたことは想像に難くない。悲田院の非人たちが嶋田および鴨河原等で髑髏を焼くという記述が続日本後紀の承和九(842)年のこととしてあるのもその一例であろう。ただその後しばらくするとこの悲田院は官の管轄でありつつも律宗西大寺の影響下に置かれていくこととなる。非人の多くは僧形となり法師や聖と呼ばれることとなった。もともとは官の下で黒不浄を清めていた者たちが、やがて寺院の下に入り同じ作業を繰り返したというわけである。

都の流転を語るにはどうしてもケガレについて思考せねばならない。ケガレを考えればそれを清める清目の存在を見ねばならない。清目を見ればおのずと非人も出る。なかなかに触れづらいところであるが、歴史を見る上ではずせないことでもある。

さて、こうして神武天皇以来、平安京に落ち着くまで都はずっと流転していくわけであるが、都が遷ることについて古事記も日本書紀も別段注意をはらっている様子はない。それは当然のこととして書かれているのみである。すなわちそれ、ケガレ信仰は、それ以前の常識からも、それが書かれた当時からも当然のことであったことがうかがえるのみである。

とりあえず以上、流転する都について思うことをつらつら書き進めてみた。また紙芝居に書ききれないことはこちらに書き綴っていこうと思う。おわり