流転する都 その参

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古代天皇がその代ごとに都を移した背景にはケガレ信仰の影響が多分にあった。ケガレ信仰の中、死と血は大きなケガレでそれぞれ黒不浄、赤不浄とよばれたが、大きな力を持ったものの死は特に畏れられた。初期の天皇を考える時、本当に畏れられたのはヒコである天皇ではなくヒメの死であったのではなかろうかという疑念も残るのだが、敢えて触れずに先に進む。

神武天皇が都を置いた畝火の白檮原宮が今の橿原であったと推定され、その整備が進められた大正期、近隣の住民たちに立ち退きの命令がでたが、その一環として古くより墓守をもって職となしてきた洞(ほうら)部落の民も移住することとなった。これは戦後、被差別部落に対する国家権力の横暴であったとするある学者の問題提起により一躍脚光を浴びたが、部落の代表たちによって否定されたため尻すぼみに終るという事件になったが、私がここで面白いと思うのはそのような学者の問題提起ではなく、そういった墓守の部落が現在まで存在し続けたことと、それが被差別部落であったという事実である。これについて少し述べる。

そもそも被差別部落の成り立ちについて、はじめから差別を受けていた人たちが集まってそうなったと考えるのは早合点である。後にはそういう構造も出来るが、もともとはそれは最も聖なる存在やそれに近しい者であったのである。聖と卑賤は俗でないという一言によって同等となる。最も高貴な存在は最も忌み嫌われるものと同等でもあるのである。これは西洋でいう狼とも同様となる。村を追われた若者は森に逃れ、狼とよばれながらそこで力を蓄えて、今度はその村に襲いかかり征服して王となる。最も蔑まれた者が最も高い地位につくのである。賤は聖となり、聖は賤となる。マクベスの魔女の言葉にも通じる。「綺麗は汚い、汚いは綺麗」。

被差別部落の大半が関西、それも畿内に存在するという事実は、天皇家とケガレ信仰に基づく。たとえば非人というのはもともとはその名の如く人でなく神に近しい存在で、ケガレを清める聖なる存在であった。それがのちに差別を受ける対象と貶められたのは、仏教の伝来と大きく関わりのあることであると私は考える。仏教が日本に伝来したのは552年とも538年とも言われるが、実際にはもっと以前であったことが今ではわかっている。ただ重要なのはこの500年代ごろより天皇家が仏教を正式に認めはじめたということである。仏教についてはいろいろな経典もあり思想体系としても面白いものであるが、この当時、もっとも重要視されたのは死の清め効果であったと思うからである。

現在でも日本人の多くは葬儀を仏式でおこない、四十九日を過ぎるまでは神社には行かないほうが良いとする。これは神社はどちらかというと目出たい所として、この死のケガレから切り離したからである。仏教が来て以来、神社は死のケガレ、黒不浄を清める役目を仏教にゆずったのである。人間にとって最も重要で気になる問題の一つは間違いなく死であろう。前回はハイデガーの思想を通して死を見てきたが、とにかく日本人はある時期よりこの死の不浄を忌み嫌うあまり神社の系列から切り離し、仏教に任せきったものと見える。そしてこのことにより、それ以前には天皇の死を清める最も聖なるものとして存在した者たちの地位がまったくに没落していったのである。

日本に律令制が制定された後、その制度で補いきれない部分を担当する役人として令外官が設置された。その最も有名なものの一つが検非違使であろうと思われるが、非人はこの検非違使の管轄に置かれることとなった。そして中世以降は穢多、河原者と並ぶ強烈な蔑称となっていったようである。ちなみに穢多はケガレ多き者のことで、生き物を殺しその亡骸を商売の道具とした者のことで、河原者とは芸を売って金銭を稼いだ者たちのことである。今で言うなら、食肉および皮革の業者と芸能人にあたる。それに葬儀屋が加わる。彼らは差別を受け身分は低く置かれたが、その一部がもっとも金銭を持つ者たちでもあったということも想像に難くない。ちなみに江戸期の非人は罪人が落とされたものであったので、少しニュアンスが違うかも知れない。

同和問題系の話に触れるのは難しいけれど、日本の歴史を考える上でどうしても外せないものでもある。被差別部落には様々な成り立ちのものがあり、例えば特定の病気の患者たちの集まりがそうなったものであるとか、村落の暮らしになじめず無縁寺などに逃げ込んだ者たちの集団がそうなったものであるとか、それを一括りにすると誤解も生じることになる。もともとは神に奉仕していた者の一団も、動物を殺して暮らしを成り立たせていた一団も、芸能や売春で身を立てていたもの達も、みな被差別民となる。この世は俗を基本とする世界で、それになじめない者は境の向こう側、散所や散在というところに逃げ込んだ。無縁の道を選んだのである。そしてこれら無縁の者たちは国の大きな系列から外れることにより被差別民となった。今で言うなら田舎の平凡な暮らしを嫌い、家を捨て都市に流入する者である。都市とは田舎で暮らせぬ者が、逃げ込んだ場所なのである。彼らは田畑にもならぬ土地に集まり、市をたてて物品を商い、金銭を儲けて暮らしを成り立たせた。現代人の多くがこの当時の感覚からいくと被差別民となりそうである。

とにかく天皇が亡くなったのち、それを清める儀式をした清目の集団があり、その墓を守る守戸の集団があり、それらはもともとは最も聖なる存在として畏れられていたのが、時代がくだるとともに差別を受ける対象と変化していった。私はその背景に仏教の伝来を見る、が、とにかく古事記以前の文献は残っていないのであるから、それは想像の域を出ないことを明記しておく。地域によって時代によって言葉の意味や使われ方も変わるし、一見良さそうな名が実は反対の意味からつけられているといったことも往々にしてある。裏を考えはじめるときりがないので、私の方針としてはそれらを扱う時は文献にあるものに限ろうと思う。