流転する都 その壱

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古事記の紙芝居用にと思って書いていたが、内容が少し細かくなりすぎて、この調子でいくと永久に完成しないのではと思ったので、紙芝居に書かなかったこと、書けなかったことをこちらに吐き出しつつ、紙芝居本編は先に進んでいこうと思う。

さて、紙芝居の本編ではようやく神武東征編が終わり、来年からは綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇あたりに入る。この二代目から九代目の開化天皇までを実在しなかったという欠史八代の学説が現在は主流となっているが、私はこの考え方には反対で、この二代から八代目までの天皇も実在したと認識する立場であることを先に明記してから話をすすめる。ただ天皇の諡号については奈良期の秀才、淡海三船がつくったものであるから、当時の天皇は天皇と呼ばれていなかったことは明白である。さらに言えば、神武天皇から開化天皇の頃は、まだオオキミとも呼ばれていなかったはずであるが、それもまた別の機会に語る事もあろう。とにかく古代天皇は天皇とは呼ばれていなかった。当時そう呼ばれていなかったものがあたかも当時より存在したかのように表記されるのは歴史学の難しいところで、ヘーゲルの歴史哲学の弊害であるとも言われるが、もとより歴史とはそうした宿命を負うものなのである。無かったものを無かったままに書く事は非常に難しく、ある時期を過ぎて始めて見えてくる特質あるいは特性といったものが歴史書には反映してくるからである。例えばルネサンスの運動が加熱し、その運動が終わったのち、始めてあれはルネサンス期であったと定義づけられたという事実や、バブルが崩壊して始めてあの時はバブル期であったと認識されるようなものである。ルネサンスを生きた人々はルネサンスなど知らないし、バブルの渦中にいた人たちは、それがバブルであったことを終わったのちに知るのである。歴史は何かが終わってから作られるものなのである。

さて、では天皇はこのこのころ何と呼ばれていたかという問題であるが、ヒコ、ミ、ミミ、あたりが妥当ではなかろうかと思う。そしてそのヒコはヒメを守る存在として価値を持っていたと私は考える。ヒメヒコ制、これも当時は無かった言葉であろうが、言葉一つ一つを気にしているとまったく先に進めないので、とにかく気にしないことにする。ついでに天皇についても便宜上そのまま天皇の呼称で進める。それでヒメヒコ制であるが、これは幽界の伝達者としてのヒメと顕界の統率者としてのヒコが一対になって国を治めた制度であると私は理解している。例えば天照大御神と須佐之男命であるとか、卑弥呼とその弟といった具合である。時代くだって推古天皇と聖徳太子であるとか、斉明天皇と中大兄皇子という例もあろう。ヒメは見えない世界の代表者であり、ヒコは見える世界の代表者であった。そして当時、見えない世界のほうが見える世界より重きを置かれていたのである。このヒメヒコ制は、また別の地域ではタマモリ制とも置き換えられる。幽界のタマ(玉、魂)とそれを守るモリ(守)がそうである。つまりヒコ、ミ、ミミである初期の天皇は幽界の意思伝達者であるヒメと対でなくてはマツリゴトを行えない存在であったことが伺える。そして更には当時の中心は天皇ではなくヒメの方にあったのではないかと私は考えるのである。

ではなぜいつの間にヒメは外されてヒコであった天皇を中心に歴史が編まれ出したかを考える。するとその歴史背景に大きな戦争とその後遺症を伺うことができる。古事記が書かれたのは8世紀、713年のこと。それは白村江の戦いで百済が滅び倭国が半島より撤退したおおよそ五十年後のこととなる。663年、白村江で敗れた倭国はあわててその戦勝国である唐に倣って律令制を取り入れ律令国家として再出発した。ちなみに、このとき敗戦した倭国は長州王朝倭国で、近畿天皇家はこの倭国が滅んだのち頭角をあらわしたという話もあるが、その事についてはまた別に書く機会もあろうし、軽く脳裏にとどめておいていただければ結構である。さて国家が大きな敗戦をした。そして、そののち相手国の制度を取り入れて国の再建をはかる。そういう図式を見る時、我々は近しい記憶として、まず太平洋戦争での敗北とアメリカ資本主義の導入を思うのではなかろうか。日本は太平洋戦争でアメリカに敗れ、資本主義を取り入れる事で国の再建を果たした。そして奇跡に近いと言われるほどの再興を果たしたわけであるが、同様の事が千数百年前にも起こっていたのである。日本は島国で、ほとんど外征にさらされずにすんできた国であるが、それでも、少なくとも二度は巨大な文明とぶつかり、そして敗れて文明を受け入れるという苦い経験をしているのである。そして相手国の文明を受け入れる時、同時に入ってくるものがある。それが思想である。太平洋戦争で負けた日本が取り入れたのは民主主義と資本主義であったが、その奥についてきたのは大量消費と廃棄を正義とする思想。それと同様に白村江の戦いで敗れた日本が取り入れたのは律令制であったけれど、その奥についてきたのは男尊女卑の思想であったのではないかと私は思っている。そしてこの思想により、それまでヒコの上に置かれたヒメは外され、五十年後、国家が新たに歴史書を編もうとした際には、ヒコすなわち天皇を中心とするものになったのではないかと思われる。

日本の歴史書は古事記がその始めではない。古事記の序文にも旧辞と帝紀を元としたことが記されているし、天皇家以外の諸家にも同等のものが存在していたことも記されている。また日本書紀には聖徳太子と蘇我馬子が天皇記や国記を編纂したことも書かれている。その他、神武東征以前より畿内に君臨していたニギハヤヒ一族の歴史なども、その子孫である物部氏は持っていたであろうし、近畿天皇家以前より繁栄していたとみえる日向や出雲、それに高志などにも何か残っていて然りであろう。関東では毛野や日高見にあったかも知れない。古事記編纂の際、天武天皇がそれぞれの家の持つ歴史書は虚偽が多いから改めなくてはならないと言ったことが記されているが、すべて残しておいてほしかったものである。九州倭国の歴史をもとに編纂されたといわれる日本記はしばらくは正規の歴史書として使用されたが、桓武天皇の時代に焚書となったという。それには朝鮮半島とのつながりなども詳しく書いてあったようで、その片鱗は百済記などに見られるものの、まったく惜しいことをしたものである。

さて、前置きが長くなってしまったが、ここからが本題、流転する都についてである。日本では古来より都が流転する。神武天皇が即位したのは畝火の白檮原宮で二代目の綏靖天皇が都としたのは葛城の高岡宮である。三代目安寧天皇は片塩の浮穴宮に暮らし、四代目懿徳天皇は軽の境崗宮に棲んだ。五代目孝昭天皇は葛城の掖上宮に居を構え六代目孝安天皇は葛城の室の秋津島宮に都を遷したとある。この後も代が替わるごとに都は流転し、その習慣は古事記の最後を締めくくる推古天皇まで貫かれることとなる。なぜ都は遷されねばならなかったのか、そこに日本的な信仰の有り様が見えてくる。

というわけで、これより日本人の信仰と都の流転について考察していこうと思うわけであるが、いささか長くなってきたので、続きはまた後日とする。