流転する都 その弐

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日本人の基本は怨霊信仰であると言われた方があり、それは良い得て妙だと思う。日本人は古来より呪いを恐れる。人を倒せば呪いが残るのであり、なので争って勝っても倒した相手のために大きな神社を建立したりする。倒した相手の神殿などを徹底的に破壊する一神教的思考とはまるで異質な文化といえる。しかしただ怨霊信仰と大きくまとめてしまっては見えなくなるものもある気がする。大きな恨みは怨霊となるのでわかりやすいが、そのほかに、何やら気がすぐれない、悪いような気がする、といった小さな不快もある。この小さな不快感も怨霊も一緒にまとめたところに日本人のもっと根本にある思想、ケガレ信仰が存在する。

日常はケ、その日常が積み重なり枯れてゆくとケガレとなり、それを日常に戻すための非日常としてハレがある。ハイデガーは「気分は被投性を開示する」と言ったが、ケガレはまさにこれに対応するものなのかも知れない。 すぐれない気分、くすんだ気持ち、は、人間を襲うもので、自ら作るものではない。ケが枯れた状態なのである。ハイデガーは言う。人間とは否応無くこの世界に投げ込まれている存在である、と。これを被投性でという。そしてこの被投性を自覚し、それでもここで生き続けなければならないと知った時、人間はくすんだ気持ち、アンニュイな気分に襲われる、と言うのである。日常の繰り返しに飽き飽きし、自分の存在が重荷となる。このくすんだ気持ちこそケガレであろうと私は思うのである。

ここで少しケガレを離れ、ハイデガーの思考をしばらく見ていきたいと思う。このハイデガーの気分=情状性に対するアプローチがなかなかに面白いと思うからである。

『存在と時間』の中、ハイデガーは情状性=気分というものについて繰り返し述べる。例えば「不機嫌な気分」というものは、自分を含めたまわりの世界の何であるかを告げ知らせる根拠で、「気分」は自分で作り出したり選んだりできない、という。「気分は襲う」もので人は「気分」に襲われてはじめて自分がどのような状況であるのか、「世界」や「他人」の何であるか、を告げ知らされるのである、という。人間存在は自己の背後にある「非知なもの」によって、根本的に規定されるものなのである。また「恐れの気分」というものもあり、それは人間が自分自身の「存在」に対して根本的な恐れや不安を持っているところから来ている、という。

気分、気分。人は気分によってもっとも根本的な本質契機をされる。そしてその本質契機を了解し解釈し陳述する。気分は先ほども述べたように襲いくるもので、その根本には自分自身の存在に対する根本的な脅えと不安があるという。人間は何故その脅えと不安を持つのかという問いに、ハイデガーは、その向こうに見え隠れしている死をもって答える。人間は生まれてきたからには必ず死ななければならない。それが自己の存在に対する根本的な不安となるというのである。ハイデガーはそれを遮断したり隠蔽したりするのではなく、自覚して「先駆的な決意」を持つべきだという。この投企によてこそ人間には諸可能性ができると言うのである。死の不安を忘れるため空談や好奇心、曖昧性に没することを頽落とよび厳しく戒めている。人々のこの頽落を利用した者が社会秩序を作り施政者となることを説明する。

ヘーゲルは『精神現象学』の中、原始時代に主と奴隷が階級分化し、奴隷が主のために日々の労働に従事するようになるためには、奴隷が「死の不安」によって脅かされるのでなくてはならない、と言った。ハイデガーは、どんな時代や文化においても人間は「死」に対して必ず不安を持ちそれを何らかの形で隠蔽したり馴致してきた。この隠蔽や飼いならしが制度として労働の秩序、社会という体制といった、さまざまなレベルでの共同幻想を作り出した、と言い、ミシェル・フーコーは『言葉と物』あるいは『臨床医学の誕生』の中、「死」が人間社会の秩序に根本的な影響を与えることを示唆した。大きな余剰価値を生み出す一日の労働とぎりぎりの賃金との間で「等価交換」を成立させるには、労働者の持つ「死の不安」をやわらげてあげることが大切、ということである。

死は交換不可能で、没交渉的で、確実で、無規定で、追い越し不可能なものである。ハイデガーは不安を人間にとっての根本的気分だといい、その底に死の問題が横たわると説いた。そしてその解決策として、頽落ではなく、死に「先駆」すること、すなわち死への深い自覚を持つ事と、「決意性」良心を持とうとする事、こそ大切であると言った。ハイデガーの思想はまだまだ続くのであるが、ここらでいったん再びケガレの話に戻る。日本においてハイデガーの言う「気分」はケガレであろうと思う。ケの積み重なりでこのケガレの状態となる。そしてその解決策としてもちいられたのがハレである。ハレはハイデガーのいうところの頽落にあたりそうである。ハイデガーは頽落を悪しきものとして説いたが、現実的には良いものであろうと私は考える。いつも死を意識してばかりの人生では憂鬱になってしまいそうだ。先を予測すれば必ず死ぬところに行き着く。そんなことは誰でも知っているのである。だからこそ今をもっと楽しくしようとハレの日をもうけて、ケガレの気分を弾けさせてしまうことが良いのではなかろうか、と思うのである。

まるで古事記と話が外れてしまっているけれど、そのうちまた戻るはずなので今しばらくご勘弁願いたい。今回は民俗学的にハレ、ケ、ケガレを見て来たけれど、古事記ではこのケガレのおこる原因を様々なタワケに見ている。タワケのもともとは田を分ける愚か者という意味で、相続に関してその方針をとったのは後の鎌倉幕府であったのは周知の通りである。鎌倉御家人は田を分ける相続で疲弊し、それは直接に幕府への不満に繋がり、やがて倒幕の遠因にもなった。タワケの逆は田が寄ることで、そうして田を寄せる者はタヨリになる者として尊敬された。また話がよそにそれてきたので今回はこのへんで。